シンタクラース謎々紀行

シンタクラースとピート 12月も近くなるとオランダやベルギーと縁がある人々の間で何かと話題になるのが「シンタクラースSinterklaas(フランス語からは普通「サンニコラSaint Nicolas」と表記される)」である。最近では多くのBlogによって、手軽かつ現地から生の情報として紹介されることもあって、以前にもまして日本でも知られるようになってきたのではないだろうか。従って、ここでは12月6日の「シンタクラースの日」がどのように祝われているかについて改めて論じることはしない。これに関しては、数多あるサイトやBlogに目を通していただく方がその雰囲気を感じ取ってもらえると思う。

しかし一方で、気軽にシンタクラースについて語られているのを見、また、自らそれについて考えるにつけ、謎ばかりが頭をもたげるのも事実である。「オランダのシンタクラースがサンタクロースの語源になった」というこの短い一文の裏にも、実はその性質上黙って見過ごすことができない謎が多数潜んでいるのである。

以上のような理由から、『現代版』シンタクラースの様子や、その多分に簡略化されすぎた由来紹介に対して、少し批判的なメスを入れることで、改めてその形成史を問い直してみたい。 なお、以下の記述は主にネット上で入手可能な日本語・英語・蘭語・仏語・独語文献から導き出したものである。その際、根拠あいまいなものや論理的一貫性に欠ける情報は極力排除することで、本稿の信頼性確保に努めた。以下の各固有名詞は特に混乱のもととならない限り、極力オランダ語発音を基準に整理してみたことを申し添えておく。

伝承の起源と拡散

「シンタクラース」とは三世紀後半(270年 or 280年)に現在のトルコにあるパテラPateraに生まれた(ギリシア生まれという説もあり)ニコラースNicolaasがモデルといわれ、四世紀前半には小アジアの町ミュラMyraの司教(司祭?)に任じられていたとされる人物である。既にその実在自体に疑義が唱えられていないわけではないが、ここでは話を先に進める必要から敢えてそこには立ち入らないこととする。

このニコラース司教は両親から引き継いだ膨大な遺産を貧しい人々に施したことで、次第に庶民から敬愛されるようになったといわれる。結果、彼は6世紀には東ローマ帝国で聖人に認定され、その命日である12月6日(342年没)が聖ニコラースの日とされるに至る。

しかし、実際にはニコラースの生涯は謎に包まれ、彼が起こしたといわれる様々な奇跡のみが伝説として人々の間に語り継がれていった。最も古い伝説としては、宿屋に宿泊した三人の学童が主に殺害され、樽に塩漬けにされたが、七年後にそこを訪れたニコラースが彼等を生き返らせたというものがある。これによって、聖ニコラースは後に子供や学生の守護神として祭られるようになる。また、別の有名な伝説として、没落した貴族(商売に失敗した靴屋という話もあり)が経済苦から三人の娘を身売りしようとしたとき、その話を耳にしたニコラースが夜半にこっそりと窓から財布(金貨という話もあり)を投げ入れ、結局その娘たちは身売りされることなく、それぞれ無事結婚することができたというものがある。これが聖ニコラースの日にプレゼントを贈るという習慣の元になったといわれる伝承である。さらに、難破しかかった船を奇跡で救った話(これによって聖ニコラースは船首の飾りとして採用されることが多くなった)は、船乗りの守護聖人としての地位も約束した。

聖人化直後にはニコラースの人気はマリア信仰に迫るほどであったといわれ、やがてニコラース信仰は9世紀頃から次第に西方へも伝播してゆく。

11世紀末に埋葬地が異教徒の手に落ちたことで、聖ニコラースの聖遺物は南イタリアのバーリBariに移され(1087年)、そこで彼の偉業を讃えることが修道僧たちの間でにわかにブームになり始めたという。13世紀頃になると、北フランスの修道院でこうした崇拝は勤勉な学童にプレゼントを贈り、そうでない学童には説教を行うというような風習へと生まれ変わる。そして、ニコラースに扮した学童が司教服を着て街に繰り出し、お布施をねだったりというようなどんちゃん騒ぎへと次第に方向が変化していく。こうして、聖ニコラースの日における世俗化したお祭り騒ぎが各地に波及していくことになった。

クリスマスへの分化

17世紀初めにアメリカへ移住したオランダ人は、彼地でも12月6日の聖ニコラースの日を祝っていたといわれる。ただ、ここで重大な謎が生じる。まず、1517年に始まる宗教改革は聖人崇拝を否定したことから、プロテスタント地域では聖ニコラース信仰は廃れるが、何故カルヴァン派の新教国オランダでそれが駆逐されず、新大陸へ持ち込まれることができたのであろうか?確かに、カルヴァン派自体は歴史的に少数派であったが、カトリックは過酷な弾圧を受けていたので、こうした聖人崇拝も弾圧の対象となったことは想像に難くないところである。ひょっとして、移住した当時のオランダ人というのが迫害を逃れてきたカトリック教徒だったのであろうか?しかし実際のところ、新大陸へ渡ったオランダ人達の宗教的背景が歴史問題の課題として議論の対象にされることはない(彼等がカトリックであったと主張するサイトはあり)。彼等がプロテスタントであれ、カトリックであれ、聖ニコラース信仰が何らかの形で庶民の手によって新大陸へ伝えられた事実だけがはっきりしているのみなのである。

もう一つの謎として、後々オランダの「シンタクラース」が訛って「サンタクロース」と呼ばれるようになった経緯は敢えて不問に付し、元来6日(あるいは今日のようにその前夜である5日?)に祝われていた行事(実際には当時どのような内容のイベントが行われていたかは不明)が25日に移されていった裏にはどのような契機があったのだろうか?

ここで推測するに、後にアメリカ社会の核になるイギリス系移民の影響が考えられる。つまり、イギリスでは聖ニコラース信仰が浸透しなかったのか、意外と古くから土着信仰に由来するイベントが25日に組まれていたという。社会の主流となった構成員の風俗・習慣がマイノリティ集団へも浸透してゆき、やがてそれが社会全体の風俗として定着するという過程は不自然なものではない。あくまで一つの推理として、今後の宿題としておこう。

アメリカへ渡った聖ニコラースは19世紀前半にはサンタクロースとしてトナカイの牽くそりに乗り、クリスマス・イブに現れるようになった。ただし、この頃のその装いはといえば、赤いマントの人であったり、小人であったり、あるいは煤けた老人といったような様々なものであったという。

彼地でサンタクロースが最終的に現代風な装いとなるのは1931年のコカ・コーラの広告によってであることはつとに有名である。このときにようやっと赤白のお馴染みの衣装に人の良さそうな太っちょ爺さんとして登場し、第二次大戦後ヨーロッパへ里帰りを果たすのである。

ヨーロッパの聖ニコラース信仰

現在のところヨーロッパの一部の地域には土着の聖ニコラース(あるいはその末裔?)と、第二次大戦後アメリカ軍とともに持ち込まれたサンタクロースという二人の好々爺が存在している。

この聖ニコラース信仰が生きている「ヨーロッパの一部」に該当する地域の特定は容易ではない。インターネットでの検索の結果判明している確実な地域としては、シンタクラース(あるいはサンニコラ)がやって来るオランダおよびベルギー、ザンクト・ニコラウスSankt Nikolausが登場するドイツ(特に南部カトリック圏)、オーストリア。スイスのカトリック地域にも同様の祝祭が見られるとのことである。ルクセンブルクでは聖ニコラースはクレーシェンKleeschenと呼ばれ、また、フランスの北部や東部地域(ベルギー、ドイツ国境に隣接する地域)、さらにポーランド、ロシアにも類似の催しが見られるとのことである(ブルガリアやイタリアの一部にもそれが見られるとの未確認の指摘あり)。ただし、ドイツでもかつてはプロテスタント地域では聖ニコラースの日のイベントはなかったということらしく、カトリックの一宗教行事として受け継がれてきたと考えるべきであろう。

ところで、フランスでは一部を除き、何故聖ニコラース信仰が存在しなかったのであろうか?サンタクロースがアメリカから持ち込まれたとき、異端として火あぶりにされたこというエピソードがある国ではあるが・・・。フランス革命との関連が想像できなくもないところであるが、実に大きな謎が残される。

ネーデルラントでの生き残り

11世紀に聖ニコラースの遺骨がヨーロッパにもたらされて以後、中世の修道院などでは一種の聖ニコラース崇拝がブームになったことは既に紹介した通りである。ベルギーのフランス語地域(南部)でそれについての最初の記述があるのが13世紀、同オランダ語地域(北部)では14世紀末となっており、さらに、オランダでは14世紀半ばには聖ニコラースの日は子供のための祝祭日として確立されつつあったことが記録によって確認できる。そして、15,16世紀になるとその行事は修道院や教会の手から離れ、民衆の手へと移る。靴にお菓子を入れてくれる不思議な人の信仰が定着するのもこの頃のようである。シンタクラースの日を祝う様子は多くの画家のテーマとなったが、中でもヤン・ステーンJan Steenの絵画はそれを生き生きと伝えている。

しかし、当時のオランダのローマ・カトリック教会はこのあまりに世俗化した風習を禁止しようとする。16世紀半ばの対スペイン独立戦争開始後は、カトリックを追い落としたプロテスタントがこの日のお祝いを禁止し、聖職者や各都市の為政者はいろいろと手を尽くした。しかし、既に民衆の間に深く根を下ろし、また経済的効果も期待できるこの習俗を駆逐するには至らず、結局ほとんど効果を見なかった。これが新教国オランダで聖ニコラース信仰が廃れなかった理由であり、さらには、新大陸へのその伝播の背景にもなっている。

宗教改革による禁止令を見事に乗り切ったオランダの聖ニコラース=シンタクラース信仰ではあるが、18世紀になると都市のエリート層を中心に、このお祝いを街頭から家庭内の品の良いお祝いへと改革しようとする動きが出始める。その裏には子供に勤勉と服従を教え込む目的が設定されていたのであり、こうして「良い子にはご褒美を、悪い子には罰を!」という図式が練り込まれるようになった。

さらに19世紀になるとシンタクラースの風習もかなり今風へとアレンジされていった。シンタクラースがスペインから蒸気船でやって来たり、街を練り歩いたり、屋根の上を馬に乗って駆けるといったことなどは、この頃登場したものである。これらはいずれもスヘンクマンJan Schenkman (1806-1863)という教育者が描いた絵本『シンタクラースと従者Sint-Nicolaas en zijn knecht』(1850)が作り上げたものであり、従って、現代版シンタクラースの起源を探るにはその民俗史的背景より、スヘンクマン自身の創作動機を検証するのがより重要となってくる。

ところで、この現代版シンタクラースは20世紀に入ってもしばらくは都市の風俗にすぎず、地方へと浸透するにはさらに学校機関の介入が必要だった。都市で新しいシンタクラースのお祝いが定着しつつあった頃、地方の村々ではその日はまださまざまな蛮行が普通に行われていたという。教育機関はシンタクラースの威光を利用して、これら品格のない行為を改善しようとしたのである。その努力の甲斐あって、やがて、ニュー・シンタクラースは徐々にオランダ全土に広がる。しかしその一方で、祝い方は多様性を失い、紋切り型になっていった。こうした変化はシンタクラースの従者の名称にも現れていて、それ以前にいろいろな呼ばれ方をしていた下僕は全国共通の黒ピートZwarte Pietへと収斂してゆく。

こうしたシンタクラースの祝祭の標準化過程とはまさしくオランダの国民形成過程を重なり合うものであり、紛れもなくシンタクラースはオランダ国民形成に一役買ったのである。

黒ビート

ネーデルラント版聖ニコラースは黒ピートZwarte Pietと呼ばれる従者を連れている。不思議なことに、聖ニコラースの日を祝う習慣のある他の地域においても同様にニコラースはそれぞれに下僕を従えていて、ドイツでは下僕ルプレヒトKnecht RuprechtやクランプスKrampus(主に南ドイツやオーストリアでこう呼ばれている)、ルクセンブルクでHoùseker(ルクセンブルク語での発音不明)、フランスでペール・フエタールPère Fouettard(直訳するとすれば「鞭打ちオヤジ」か?)と呼ばれている。彼らに共通するのは、悪い子供を鞭や鎖でたたいたり、袋つめにして川に放り込んだり、森へ連れ去ったりといったような、多分になまはげ的な役割を担っている点であり、オランダやベルギーにおけるピートのような、子供に親しみを感じさせるプレゼント配達係の顔とは大きく異なる。また、その風貌も毛むくじゃらで角があるといったように、視覚的にも畏怖を抱かせる存在である。黒ピートも当初は鞭を手にした存在であり、現在でも「悪い子供をスペインへ連れ去る」といった脅し文句が聞かされることもあるが、一般的には第二次大戦後こうした強面の部分は消え失せ、道化師的存在となっている。

このピートの由来ははっきりしないが、聖ニコラース信仰がゲルマン民族の信仰した神オーディンWodanと深く関連するとの立場から、それはオーディンに付き従う大鴉、あるいはまたオーディンの息子の名残か?との指摘がある。しかし、オランダでシンタクラースが従者を得るのが先に紹介したスヘンクマンの本の中であることから、ピート自身、あるいはその前身(黒ピートと呼ばれるようになるのは1891年が最初)の起源をキリスト教伝播以前に求めるのは問題ありといえるであろう。

スヘンクマンの絵本以後、話によって下僕は白人であったり黒人であったりしたが、現在のオランダではピート役に扮するオランダ人が手や顔を黒く塗ることからもうかがえるように、それは「黒い人」であると認識されている。しかし、庶民の間では「ピートはムーア人」というのが一つの「常識」となっているふしもある。ムーア人とはかつてイベリア半島を支配していたイスラム教徒で、厳密には黒人ではない。にもかかわらず、ピートがイラストなどになる場合にはアフリカ系黒人の特徴が付加され、やはりイメージとしては「黒人」として認識されていることは否定できないところである。この点をして、シンタクラースの風習に差別的な要素を見て取る人々もいる。

おわりに

以上、ネット上で入手できるさまざまな文献からシンタクラースの形成史を再考してみた。まだまだ不明な点、疑問に思う部分もないではない。先に触れたようなフランスでの聖ニコラース信仰の不在もその一つであるが、もう一つ、ベルギーのシンタクラース、とりわけ南部フランス語地域に見られるサン・ニコラの行事がオランダのそれと極めて類似しているのは何故か?という点が個人的な最大の謎である。恐らくは、オランダからの「輸入」によるものと思われるが、国内の言語の壁をいともたやすく打ち破って隣国の標準化された風習がベルギー国民の間に定着したのは一つの奇跡かもしれない。

昨今、シンタクラースのような長い伝統を備える土着の行事に加えて、サンタクロースやハロウィーンといったアメリカの風習が急速に持ち込まれるようになった。商業主義の大攻勢といったところかもしれないが、シンタクラースはむしろそのアメリカン・スタイルの商業主義を肥やしとして、今後ますます大きな果実を実らせるような気配がある。

2005年10月

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